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年中とは?

[ 35] 年中行事(1)
[引用サイト]  http://homepage2.nifty.com/folkasia/folk/aevent1.htm

【学習の目的】年中行事とは、今日では日本語の概念であるが、中国で古くから歳時記と呼ばれていたものに相当する。今日俳句で季語を探すのに用いられる『歳時記』と、その混用を避けるために年中行事と称する。年中行事は、歳事節日によって明らかにされるが、そのもとになるものは暦法である。中国や朝鮮日本で使われてきた暦法を学ぶことによって、季節と行事がいかに密接に関係するかがわかると思う。農業社会である中国は、天候と農作物の関係を知るために多くの暦を作り出し、またその関係を多くの書物に残してきた。それらの書物は、『月令』とか『歳時記』という名前が付くものが多い。年中行事の多くは、中国での伝統的な価値観に裏付けられて今日まで続いており、今なお盛んな行事も多い。またあるものは変形し、本来の目的や型式がわからなくなっているものもある。近年は西洋のクリスマスやセントバレンタインディーの風俗が定着しつつあり、その風俗の受け入れにも、ある特徴が認められる。中国の年中行事は、また日本の年中行事の祖形をなすものであり、その影響性において非常に大きなものである。中国の年中行事を学ぶことは日本の歳事における風俗習慣を知る基礎となるものである。
太古の時の人は、“日出而作、日入而息”で暦の必要はなかった。一昼夜を一日、月の盈昃を一月(太陰暦の基礎)、一寒暑を一年(太陽暦の基礎)と考えた。
伝説では天皇氏が干支をつくり、伏羲が甲暦を作り、黄帝は大撓に命じ甲子を作り、大昊氏は暦正を設けて、センギョク氏は新暦を作り、帝尭氏は羲和に命じて人時を授けた。
一期を三百有六旬有六日として、閏月を四時と定めて歳とする。近世の回帰年を推算するとほぼ同じである。夏后氏は夏時を頒けて、中國の正朔の一つの標準とする。
三代の暦制は同じでない。夏は建寅の月を歳首とする。商は建丑の月を歳首とする。周は建子の月を歳首とする。秦は建亥の月を歳首とする。漢初には秦制を未だ改めていない。武帝の時、初めて朔を改正して夏正を用いる。王莽は殷正を改めて用い、建丑とする。
清の咸豊四年、太平天國はまた改暦して、三六六日を一年として一年は十二ヶ月、単月を三十日、双月を三十一日、干支の紀日は中暦と同じで、その一周間の順序はまた西俗と一致して唯節を月首に置き、気を月中に置いている。十四年をえて廃止された。
漢太初から清末まで二千年余りの間、おおむね建寅を歳首として、その間に正朔を改めても多いもので十年余り、少ないもので一.二年でみな久しからずしてまた夏正を用いている。
西洋古代暦は1582年からグレゴリオ暦(グレゴリオ13世)。多くは春分を歳首としている。エジプトは秋分を歳首としている。ユリウス暦は冬至を歳首としている。人々は陰暦の習慣に拘泥して、必ず月の朔日を起点にしたいので、ついに冬至のあと十日を一月一日としたのである。
陽暦は又の名を太陽暦という。地球が太陽を一周するのを一年とする。ヨーロッパ各國で通用している。だから又の名を西暦という。我國は民國元年から陽暦を採用している。だから又の名を國暦という。我國の旧時の暦と対稱して、だから新暦と名付けられた。
陰暦は又の名を太陰暦と名付けられる。月が地球を一周するのを一月としている。さらに地球が太陽を一周する時間を配合して一年としている。実際は陰陽合暦に等しい。
我國では民國紀元前にはこの暦を採用していた。現行の暦と相対稱して、だからこれを名付けて旧暦といっている。一般の人は陰暦は農家に適合するのでこれを名付けて農暦といっている。実際にはそうではない。二十四節気の陽暦の日期の一つの節を参照することによってわかる。
この太陰暦は歳首の不同によって四種がある。秦は建亥、即ち現行の陰暦の十月の初一を正月初一とする。周は建子、即ち現行の陰暦の十一月初一を正月の初一とする。
四書の『孟子』の内に「七八月三間旱・則・苗槁矣」句があるが、七八月とは即ち現在の陰暦の五六月である。商は建丑、即ち現行の陰暦の十二月の初一を正月初一としている。夏は建寅、周暦の三月を正月である。寅月である。(十一月は子月、十二月が丑月)
新年の春聯に“斗柄回寅”は意味はここにある。(まちがい北斗が寅の位置に回ってくる)。・・斗柄は斗建のこと
だからまた“夏暦”と名付けられている。・・夏正(立春を含む月)という・・斗建(北斗七星の第6と7星を結ぶ線)・・斗建が寅をさす
>夏王朝の都という伝説のある河南省の告成鎭、すなわち昔の陽城が暦の基準と成る地点であった。今日の子午線。古代の伝説では8尺のノーモン(「表」ないしは「圭表」という)を立てて日の影を計った。
年に三種ある。地球が太陽を一周する。365日6時間9分9秒、これを“恒星年”という。太陽の近地点をすぎて黄道を循って、また近地点に帰ってくるのに365日6時間13分48秒、これを“近点年”という。太陽が春分点をすぎ、黄道を東へ一周してまた春分点を過ぎるのに、365日5時間48分46秒(365.2422)、これを“回帰年”という。また“歳実”ともいう。二分点(春分点、秋分点)は毎年黄道に沿って、西に約50秒逆行する。だから回帰年は恒星年の時間に比べて短い。その差は20分23秒である。これを“歳差”という。この三種の時間は同じでない。毎年の節気寒暑を変わらないようにしたいとするために、そこで回帰年を暦を制定する年とする。
一月一日から、次の年の一月一日を一年という。年の長さは本当は歳実と等しくなければならないが、一年の日数は整数である必要があり、奇数の時間を計算に入れると不便であるので、365日で一年としている。毎年5時間48分46秒が余る。足していくと4年でほぼ一年となる。だから4年で一日を増加する。これが閏日である。この年を閏年という。閏日のない年を平年という。平年は365日、閏年は366日、四年の余りは23時間15分4秒である。今、閏日を一日とすると多すぎる。超過の44分56秒は、積み重ねていくと、25閏で17時間58分24秒となり、やく一日の4分の3にあう、そこで毎百年で1閏を止め、400年で閏をやめない。もし毎4年に1閏をおき、毎400年で3閏をへらせば、計算上は2時間53分23秒超過する。八個の400年、すなわち3200年ごに、はじめてこの一日の差を補足すれば足りることになる。
地球の軌道は楕円形であり、太陽からの距離に遠近がある。1月一日はその距離が一番近くこれを「近日点」という。7月2日の距離が一番遠くこれを「遠日点」という。一年の最初をこれを「歳首」といい、また「年始」という。陽暦は近日点を歳首とし、1月1日とする。
月の運行軌道は「白道」と名付けられている。白道と黄道は同じく天体上の二つの大円である。5度9分で斜めに交差している。月は地球を1周する間に黄道に2度出没する。27日7時間43分11秒で、月が公転に要する時間、これを「恒星月」という。ただ月が地球をめぐるとき、地球の公転によって位置が変動する、計算によればまえに27度あまりほど進む。月はまいあにち
13度15分行くので、月がちょうど朔から、ぐるっと地球を1周すると、またちょうど朔にあう。実際は29日12時間44分2秒8(29.53058)、これを「朔望月」という。習俗で1月というのは「朔望月」をさして言っているのである。
毎月の日数に半端があることはできないので、陰暦の1ヶ月は29日または30日としている。まいつき朔の日をはじめとしていて、朔日を一日としている毎年立春に接近した朔日を歳首としている。
「甲骨文では年・月を示すのに一(月名のばあいは正月)、二などの順序数が用いられたが、日付けはもっぱら六十干支で示された。一年はふつう十二ヶ月であり、時に閏月(じゅんげつ)を年末に置いて、それを十三月と呼んだ。また、一ヶ月は三〇日の大月と二九日の小月とから成っている。要するに殷代の暦法は、中国の長い歴史を通じて行われた太陰太陽暦で、ただ完成の域に達していなかった。」
「『左傳』には特に木星の運行によって行われる占星術の記事がしばしばみえる。・・・木星はほぼ一二年(正確には11.86年)で天を一周するのであって、その位置を知るために赤道もしくは黄道付近を一二等分して、これを十二時呼んだ。木星は一年のほぼ一次を行き、どの次に木星があるかによって一二年間における年(歳)を知ることができた。よって木星はまた歳星と呼ばれた。」
「猪飼按」運勢占い上の木星は太歳とよばれ、実際の天上の運行とは反対方向に移動していく観念上の木星である。
この19年の周期を「一章」といい、BC432年ギリシャの学者メトンがとなえた周期と同じ。・・メトン周期
「中国の王朝の交替は、天命が一つの王朝から他の王朝へ移動することと理解された。中国における革命は、もともとそうした意味を持った。支配者が徳を失うと、天命によってすぐれた徳を持つ支配者がとって代わった。」
「猪飼按」中国の革命とは天命による革命であり、諸制度の革命である。暦もまた受命改制によって改められた。この考えかたは鄒衍の唱えた説である。
「元封七年をもって太初元年(前104年)に改めた。したがって、そのときに採用された暦法を太初暦と呼んでいる。」
「中国の暦法では、暦元には十一月甲子朔旦冬至となる年を当てる。夏正による十一月の第一日が甲子(六十干支のはじめ)であり、その日のはじめに朔および冬至の時刻が一致するというのが、十一月甲子朔旦冬至の意味である。こうした理想的な日が、太初元年の前十一月(この年は十一月が二回ある)の朔日に起こったことを確認し、これを暦元としたのである。」
「『漢書』「律暦志」には、太初暦とそれを増補した劉@(音欠きん)の三統暦とが収録されていることである。三統説とは、三を周期として王朝や各種の事象が循環するという形而上学的思惟である。」
「中国では太初暦ー三統暦採用以後、清朝まで五十回に及ぶ改暦を行ってきた。こうした頻繁な改暦の原因は、一つには受命改制のイデオロギーによって、王朝が交替するごとに改暦が行われたためである。さrに中国暦が天体暦であるために、例えば日食計算の予報を誤ると直ちに改暦の議論が起こった。これが第二の改暦理由であった。この二つの理由によって、唐・宋時代のごときは一王朝のあいだにそれぞれ十回に近い改暦が行われた。」

 

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